石川 今回はハンティング・ワールドの昔の話をすればいいんですね?
そうなんです。
石川 とにかく昔のことだから、一生懸命思い出すようにします(笑)。
前回のインタビューで松山猛さんに伺ったところ、日本のメディア関係者ではじめてハンティング・ワールドを取材したのは、石川次郎さんが編集長を務めた『Made in U.S.A catalog』だったと。
石川 今回はハンティング・ワールドの昔の話をすればいいんですね?
そうなんです。
石川 とにかく昔のことだから、一生懸命思い出すようにします(笑)。
前回のインタビューで松山猛さんに伺ったところ、日本のメディア関係者ではじめてハンティング・ワールドを取材したのは、石川次郎さんが編集長を務めた『Made in U.S.A catalog』だったと。
石川 そう。1975年に発売された第一弾は、ぼくと故・寺崎央さん(編集者)と馬場祐介さん(カメラマン)の3人で取材しました。1976年の第二弾は、松山猛さんや小林泰彦さん(イラストレーター)といったメンバーと一緒でした。
なので松山さんも、日本でハンティング・ワールドの黎明期を一番語れる存在が石川さんだろうと仰っていました(笑)。そもそも、『Made in U.S.A catalog』以前からこのブランドの名前はご存知だったんですか?
石川 ぼくたちが『Made in U.S.A catalog』を取材したのは1974年で、当時は今のように事前にインターネットで情報を集められる便利な時代ではなかったから、ほとんど下調べなしの現場主義。現地には協力者もいたけれど、ほとんどアマチュアみたいなチームだったんです。ただ、ハンティング・ワールドのバッグだけは頭の中に入っていた。詳しいことは知らなかったけれどね。実は、それを持っている友人がひとりいたんです。
それはどなたですか?
石川 操上和美さん!
なんと!日本が誇る巨匠カメラマンじゃないですか!
石川 彼がニューヨークのお店で買って使っていた。操上さんがハンティング・ワールドの発見者だったんです。
ご本人もとてつもなくお洒落で格好いい方なので、納得です。
石川 彼にとっては発見というつもりもなく、単に使い勝手が良いバッグだったから買ってきただけなんだろうけど、ぼくたちはそれがすごく気になって、「これどこのバッグですか?」って聞いたら、ハンティング・ワールドと教えてくれた。もちろん初めて聞く名前でした。
それはいわゆるバチュー・クロスのものだったんですか?
石川 いや、ブランドバッグによく使われている、今でいうPVC素材だった。確か「レザーラックス」と呼ばれていたと思う。ほかのブランドみたいにモノグラムが入っていないからすっきりして見えるし、色もデザインも素材もすごく良い感じだった。これはニューヨークに行ったらぜひ取材しよう!って思いましたね。ただ、どんなブランドかは全く知らなかった。住所ですら着いてから調べた(笑)。イースト53番通りにあるということはすぐに判りましたけど。
今では考えられない取材スタイルですね(笑)。
石川 取材ももちろんアポイントなしで、お店に飛び込んだわけ。そしたらそこに創業者のボブ・リーさんがいて、喜んで取材に応じてくれた。彼は取材慣れはしていなかったけれど、とても親切にしてくれた。当時はオープンして1年程度だったけれど、たくさんの種類のバッグが並べられていて驚きました。「レザーラックス」のバッグを中心に、サファリジャケットのようなアパレルと、彼が好きな雑貨という商品構成。マンハッタンのいい場所にいいお店を構えて、しっかりしたラインナップの商品を扱うというビジネスを最初から始められたわけだから、すごい人です。この写真でボブ・リーさんが持っているのは3000ドルもする象革のアタッシュケースだけど、当時からかなり高級志向のブランドだったですね。
お店も相当高級な雰囲気に見えますね!
石川 そう。最初は歴史のある老舗だと勘違いしちゃうくらいの雰囲気だった。彼はそういうブランディングがうまかったんだね。ただ、ぼくはその後のハンティング・ワールドの展開は予想出来なかった。これほどポピュラーな存在になるとは思わなかったですね。
雑誌の反響はどうだったんですか?
石川 当初、ボブ・リーさんはそれほど我々の媒体に興味を持っていなさそうだったし、あまり期待もしていなかったのではと思う。でも、1年後に『Made in U.S.A catalog』の第二弾の取材でお店に行ったときはぼくの顔を見てすっ飛んできた(笑)。「誰も知り合いがいない日本からこんなに手紙が来た」と言って、手紙の束を見せてくれた。意外な反響の大きさにびっくりしていました。それで、日本での展開について相談されたんです。
1年間でとんでもない状況の変化ですね!
石川 その手紙を見せてもらったんだけれど、有名なところばかり。大きな商社とか百貨店が一斉に反応したんだね。で、彼は日本に全く知り合いがいないし知識がないからどの会社がいいか教えてくれって。それでぼくがたまたま付き合いの深かった西武百貨店を推薦したのを覚えている。トレンドを掴むのが上手で新しいモノを売る力のある百貨店だよって。西武は確かかなり初期に、ハンティング・ワールドを一時期扱っていたよね?
そうですか!石川さんが日本展開に関わっていたとは驚きです。
石川 規模は違えど、あちこちに商売のネタはたくさん提供しました(笑)。
石川さんご自身は、ハンティング・ワールドのバッグはよく使われていたんですか?
石川 かなり高いものだったから、そのときは買えなかった。
聞くところによると、フランスのメゾンブランドのバッグと同じような価格だったとか。
石川 そう。フランスの工場でつくっているってボブ・リーさんは言ってた。当時の彼はそれを売りにしていた。
うわあ、松山さんも仰っていたハンティング・ワールドのルーツ=フランス説が、裏付けられましたね!今はイタリアでつくっているとのことですが。やっぱり最初からラグジュアリー層を狙っていたんだなあ。
フランス製「レザーラックス」のキャリーオール
石川 当時のニューヨークにはアバクロンビー&フィッチがあったでしょ?今は全く変わってしまったけれど、あの頃はヘミングウェイ御用達の高級狩猟洋品店だった。ハンティング・ワールドはそういったハンティングという大人っぽいスポーツを、よりファッショナブルな視点で捉えようとしていたのでは?デザインこそカジュアルだけど、いわゆるアメリカンカジュアルじゃない。ラグジュアリースポーツ、もしくはラグジュアリートラベルという位置付けだった。
あの頃は、ルイ・ヴィトンやグッチのようなラグジュアリーブランドのバッグは、日本市場で認知されていたんですか?
石川 いや、まだごく一部の人にしか知られていなかった。あの頃はあまりいいバッグがなくて、ぼくもイギリス製でズック生地の釣り用のショルダーバッグを使っているくらいだったし。ただ立木義浩さんや操上和美さんのような人気フォトグラファーはすでに海外ブランドのバッグを使っていて、その中でもハンティング・ワールドは「無地だからいい」みたいな感覚だったんじゃないかな?(笑)。
1歩も2歩も先を行っていたわけですね(笑)。
石川 そう。さっきも言ったように、その頃のハンティング・ワールドは、他のラグジュアリーブランドが使っているようなPVC素材の「レザーラックス」を中心に据えていたけれど、世界展開するにあたってバチュー・クロスを推すことにしたんだろうね。そのほうがユニークだし。
なるほど、それによってバチュー・クロスという存在がハンティング・ワールドにおける定番へと成長していくんですね。
石川 ボブ・リーさんはブランディングの名人ですね。
でも、そんなバチュー・クロスのバッグが半世紀を経て再び、コアなファッション好きから人気を集めているわけですから、興味深いですね。
石川 本当に面白い。
きっと『Made in U.S.A catalog』は、ハンティング・ワールド以外にも、そういうストーリーを無数に産み出したんでしょうね。そして日本の風景すら変えてしまった。これが『Made in U.K.』でも『Made in FRANCE』でもなかったことが、大きかったんだと思いますが。
石川 フランスやイギリスとなると、またちょっと意味が違うかな。あの頃のぼくたちにとっては、アメリカという国と、その変化こそが面白かったから。『Made in U.S.A catalog』は、カタログであったとしても、ただ単にモノを紹介する雑誌じゃなかった。モノを通じて若者のライフスタイルを表現しようとしていたんです。
編集者としての偉大なるキャリアの産物が散りばめられた、石川次郎さんの事務所。 A:アルベルト・コルダ(左上)、エリオット・アーウィット(左下)、ピーター・リンドバーグ(中央)、三好和義(右)・・・。石川さんの壁に飾られた写真は、すべてカメラマンから贈られたオリジナルプリント! B:イラストルポの第一人者、小林泰彦さんの作品。石川さんが『平凡パンチ』の編集者だった1960年代後半に出会い、ともにアメリカを旅した盟友だ。 C:16世紀に創業した銃器メーカー、ベレッタのハンティングジャケット。日本では買えない、知られざる名品。 D:戦後から現代にかけての、75年にわたるファッション史を紐解いた『日本現代服飾文化史:ジャパン ファッション クロニクル インサイトガイド 1945〜2021』。エディトリアルディレクションは、石川次郎さんが担当した。
石川次郎
1941年東京都生まれ。旅行代理店を経て入社した平凡出版(現マガジンハウス)で『平凡パンチ』などを手掛けるが、1973年に退社。読売新聞社発行の『Made in U.S.A catalog』をヒットさせたのち、再入社して1976年に『POPEYE』を創刊する。その後は1980年に『BRUTUS』、1986年に『Tarzan』を創刊するなど、雑誌カルチャーの黄金期を創り出す。1993年の退社後は編集プロダクション『JI inc』を設立、ラグジュアリー誌の編集から商業施設のプロデュース、テレビ番組の司会まで、メディアを縦横無尽に駆け抜ける。2022年には戦後の服飾史を網羅した大作『日本現代服飾史:ジャパン ファッション クロニクル インサイトガイド 1945〜2021』(公益財団法人 日本服飾文化振興財団)を編集。