Life is Adventure 冒険こそ人生

冒険の始まり

-天与の創造力と一廉の行動力-

優れたアウトドアグッズの条件は、大自然の中でも十分な役割を果たせるか否かにある。フィールドでは常に何が起きるかがわからず、ときとして道具の破損により、生命が危険にさらされることすらあるからだ。
日本ではタウンユースのブランドと認識されがちなハンティング・ワールドだが、実は、本来の姿はただ一人の冒険家が過酷きわまる自然環境下の実体験から生み出した、リアルなアウトドアブランドのそれである。ゆえに、このブランドの製品は絶えず世界中のアウトドアマンたちから高く信頼され、支持され続けてきた。
そして、その冒険家とは創設者にしてデザイナーのロバート・M・リー、ことボブ・リー氏(以下、敬称略)。同ブランドの真価は彼の生きざまと人生哲学に裏打ちされており、それはいまなお揺らぐことはない。

ボブ・リーは1928年、米国ニューヨーク州ロングアイランドで父親が歯科医の家庭に誕生。幼少期から乗馬や射撃、フィッシングなどに親しみ、9歳で早くもフライの作り方を習得し、12歳でなんと、プロのフライタイヤーとなった。しかも、彼の顧客には産業界や財界の大物釣り師がいたというから驚く。彼のそうした作品には新しいフライパターンが少なくなく、サーモンフライのひとつは釣りの専門誌『フィールド&ストリーム』にイラスト入りで紹介されもした。それは世界的に著名な作家で、釣り師でもあるアリ・マックレーンによる記事であった。

また、10歳頃に独自の眼鏡標準システムを考案し、14歳で超高速ライフルカートリッジを設計・製作したというから、この創意・工夫の才は並みではない。ハイスクール時代にはニューヨーク北部で過ごし、余暇や週末にアウトドアレジャーに親しんでいたボブはやがて兵役に就くのだが、幸運にもアラスカが勤務地となったことで、短い休暇のほとんどをフィッシングなどに費やし、フライ作りも欠かすことがなかったという。また、こうしたアウトドアレジャーに親しむにつれ、次第に「アフリカへ行ってみたい」という夢を抱くように。そして、これは1955年に実現し、彼は同大陸東部のウガンダとタンガニーカ(現在のタンザニア)へと旅立つ。数か月間にわたる、この旅でアフリカの大自然にすっかり魅了されたボブは、ここから冒険家としてのキャリアをスタートさせたのだった。

’59年、大陸西南アンゴラにビッグ・ゲーム・ハンティングや写真旅行、探険旅行などを主催する会社「リー・エクスペディションズ社」を設立。アンゴラ政府から営業許可を得たのは、同国南東部の広範なエリアだった。そこで同社は、これを機に野生生物の調査にも着手し、ボブ自らが先頭に立ち、計画立案から調査までを行った。しかも、この調査に基づき、アフリカで初めて猟鳥獣類管理プロジェクトが事業化されるにいたり、結果、密猟が激減して野生生物数は増加に転じ、現地の人々の雇用機会も生み、アフリカにおける同種事業の模範となったのだ。

こうした活動を続けるにつれ、ボブは既存のアウトドア用具に幻滅を感じ始め、持ち前の創造力と手先の器用さでさまざまなギアを作り出した。当然、これらはボブが自身のために製作したモノだが、次第に友人や知人たちの間で話題となって注文が殺到したことで、商品化を決意。’65年、ついにハンティング・ワールドを設立したのだった。
ところでボブが、とりわけ不満を感じていたものにバッグがあった。既存のキャンバス製は砂塵を吸うため、乾燥したサバンナにおいて収納した撮影機材を十分保護することができなかったのだ。そこで内戦によってアンゴラを離れ、米国に戻ったボブは新たな素材の開発に取り組み、試行錯誤ののちの’72年、ようやくこの要求を満たす生地を生み出すことに成功。
これがハンティング・ワールド独自の生地にして、ブランドのアイコンである「バチュー・クロス」であった。

少年時代に開花したボブの創意・工夫の才覚は、アフリカ時代にもいかんなく発揮された。たとえばサファリカーとして酷使したランドローバー車(写真上3カット)は、よりヘビーデューティに、よりコンフォタブルに使用できるようメカや搭載機材にさまざまな改良が施されていた。さらにはテントとその周辺用品、ライフル、大型バッグなど、彼が創出したアイテムはカテゴリーを問わず、実に多彩であった。

アフリカにおける冒険旅行の記録は1冊にまとめられ、米国にて’60年、『サファリ・トゥデイ』のタイトルで発行された。ボブにとっての最初の著書となった、このサファリハンティングのガイドブックにはテキストとともに、自らが撮影した野生生物などの写真も豊富に収められ、読者の目を楽しませた。また、発行当時、アウトドア系はもちろん、それ以外の雑誌媒体からも極めて高い評価を得ており、しかも現在もなお、アフリカの大自然と、そこに棲む野生生物に関する研究に欠かせない基本文献であり続けている。

勇敢な冒険家、卓越した企業家、革新的な商品プランナー、個性的なデザイナーなど多彩な能力をもつボブだが、実は写真撮影の技術とセンスにも並みならぬものがあり、カメラマンとしての腕前はまさにプロ級であった。『サファリ・トゥデイ』の著書を目にすれば、そこに記録されたあまたの野生生物の写真から、その事実を確認することができるだろう。

アフリカからユーラシアへ

-数々の発見と功績-

創設者ボブ・リーの人生は、彼の冒険への情熱なくしては語れない。彼の非凡なところは、ハンティング・ワールド社設立後も探険をやめなかった点にある。ひとつの事業を起こし、運営していくことは、どんな人間にとっても大きな仕事だ。ことにハンティング・ワールドは、ボブ自身が企画・開発したオリジナル製品だけで成り立っていた。また、製造から販売ルートの確立まで、なすべき仕事はいくらでもある。普通なら、これだけで忙殺されてしまうだろう。加えて、創業から2年後の1967年には早くも最初の直営店をニューヨークに開店させ、続く「バチュー・クロス」導入の成功でグローバルブランドへと飛躍させたことで、彼は多忙をきわめていた。にもかかわらず、その合間を縫って、’70年までインドやイランへの探険旅行を繰り返したのだった。ことにイランではパーレビ国王の弟アブドレザ王子(写真下中央)と親交を結び、二人でアンゴラ、モザンビーク、南アフリカなどで調査旅行を実施してもいる。

そんな精力的なボブが次に興味を抱いたのは、中国だった。きっかけは、故ジェームス・クラーク博士の存在だ。探険家であり、彫刻家でもあった博士は、以前からボブが自然科学分野の師と仰いでいた著名な人物である。それもあって、博士の手による動物のブロンズ像がハンティング・ワールドにて、注文製作で販売されもした。
同博士の影響を受けたボブは、やがて中国極西部に生息するヤギに関心をもつことになる。1974年、中国工芸品などの将来性を見越したボブは、当時の副社長とともにオリエント・エクスプレス・トレーディング社を設立すべく初の訪中を果たし、北京、上海などの都市部を巡った。以後、野生生物の学術調査実現に向け、中国当局からその許可を得るべく、粘り強く交渉を続けたのだが、中国滞在中のある日、ついに待望の招聘状がボブのもとに届いた。もっとも、出発までの十分な準備期間は与えられず、’80年7月、通訳とガイドだけを連れて天山山脈に向かい、騎乗と徒歩による探索を敢行した。ちなみに学術調査が許可された西洋人としては、これは中華人民共和国史上初という快挙であった。

この遠征の結果、天山山脈の奥地にアイベックスが棲息し、特定地域から野生ヤギの一種であるリトルデーツ・アルガリが消滅していることを確認。’80年10月には、経験から特殊なデザインの探険用具一式を加え、再度、天山山脈に遠征。さらにはパミール高原にいたる地に入るのだが、実は西洋人による、この地域の調査は1926年以来のことだったという。そしてボブはそこで、1271年にマルコ・ポーロが目撃して以来、欧米の生物学者らが幻の生き物としてきたマルコポーロシープを再発見する偉業を成し遂げた。ウシ科ヒツジ属アルガリの亜種である、この希少な高山動物は1920年代初期に中国パミールから姿を消し、アフガニスタンやソビエトパミールにしか棲息しないとされていた伝説の野生ヤギだった。なお、ボブ隊はこの年の12月に再び同高原を訪れ、厳冬期ながら標高約6000mの高所踏破にも成功している。

ボブの旅はさらに続き、’81年にシベリア国境付近の中国黒竜江省最北東部に遠征し、亜寒帯林をトレッキングしながら満州ワビティやノロジカなどの生態調査を行い、同省に猟鳥獣類保護政策を提案してもいる。また、’82年7月には雲南省南部の広範な地域を踏破し、ビルマ国境沿いの部族民と生活をともにし、8月にはチベットにも足を延ばし、これをもって中国政府の招聘による一連の中国探険が終了した。

ところでボブはこれら探険旅行の際、自社製品のフィールドテストを決して怠ることがなかった。たとえば、それは「バチュー・クロス」のバッグについても例外ではなく、摂氏54℃のサバンナでも零下23℃のパミール高原でも、この素材が十二分に機能を維持することを確認している。すなわち、豊かだが過酷な自然環境はボブにとって、商品開発における発想の源泉であると同時に、絶好のトライアルテストの場であり続けたのだ。なぜなら、極限の地にあって不十分な装備は、生命の危機さえもたらしかねないことをボブは熟知していたからである。

同社の製品に寄せられる、世界中のアウトドアマンたちの絶大なる信頼は、ボブへの信頼と同義だ。と同時に、このことは、ハンティング・ワールドが真なるアウトドアブランドであることの確かな証左ともなる。たとえファッションアイテムとして優れているとしても、それは副産物にすぎないのである。

写真上は厳寒のパミール高原を移動するボブ(手前)と、その一行。中国各地では季節を問わず、こうした山岳地やステップ、砂漠など多様な自然環境の下、馬、高地性ウシ科のヤク、ときにラクダなどを帯同し、あえてキャラバン隊は小規模に抑え、現地の人々の暮らしや行動様式も重んじながらの移動としていた。また、いずれのフィールドでも絶えずハンティング・ワールドの製品テストを心がけ、その結果を製品の開発や改良に反映させた。
なお、ボブはのちに刊行した著書『チャイナ・サファリ』で、このときの中国奥地探検の詳細を紹介しており、前述の『サファリ・トゥデイ』と並ぶ貴重な記録として、いまなお高い評価を得ている。

バチュー・クロスという革新

-冒険と完璧主義からの創造-

ボブ・リーの冒険に対する情熱と豊富な体験、たゆむことなき大自然への愛情、そして確固たる人生哲学が、ハンティング・ワールドの製品における中核素材であり続ける「バチュー・クロス」にも息づいていることは言うまでもないだろう。そこで以下では、この唯一無二なる高性能クロスにスポットを当て、その開発の背景や誕生秘話について触れておきたい。

「アフリカで活動していた’60年代、フィールドでは誰もが何の疑問ももたずにキャンバス製のバッグを使っていた。僕もそうしていたけれど、実は、それらがサファリでの必要性を満していないことに失望していたんだよ」とボブは振り返る。キャンバス地は丈夫ではあるものの気密性に欠けており、乾燥したサバンナや砂漠では避けられない微細な砂塵を吸い込んでしまうため、収納物を保護するのが難しかった。しかも重いうえに防水性がなく、水分や湿気を吸うとさらに重量が増すのも悩ましかった。「カメラなどの精密機械やフィルムなどを入れていたので耐衝撃性や耐油性も欲しかったし、アフリカの灼熱から守ってくれる耐熱性も必要だった。でも、キャンバスバッグにはそうした機能が欠けていたんだ。それと、柔らかい素材であることも重要だ。中に収めるものによって、自在に形や大きさが変えられるからね」。

こうしてアフリカでの実地体験をもとに誕生したのが「バチュー・クロス」だった。これは特殊織りのナイロンクロスに染色とポリウレタンコーティングを施し、ウレタンフォームで裏張りしたのち、ナイロンジャージーをボンディングしてできあがるもので、タフであるのはもちろんのこと、上記に掲げたキャンバス地の弱点を全てクリアした極めて革新的な生地素材であった。

多彩な機能を併せ持つ「バチュー・クロス」と、それが使われた製品の耐久性や機能性、使い勝手などはボブのフィールドテストによって繰り返し確認され、万一、不備な点があれば、その後に改善が図られるのが常であった。この素材の生誕地ともいえるアフリカサバンナではもちろんのこと、霧深い極寒の高地や、気温の日較差が著しいうえに砂塵が激しく舞う砂漠などの探険においてもそれらは怠りなく実施され、地球上のあらゆる環境下で「バチュー・クロス」の“実力”が存分に発揮されることを実証した。

ハンティング・ワールドの商品を注意深く見てみると、質の高さやデザインの良さに加え、もうひとつ大きな特徴があることに気がつく。それらはクラシックにしてシンプルであり、カラーはアウトドアでいたずらに目立つことなく、自然と調和する色調を基本としている。しかし、その一方で商品個々には堅牢性が秘められており、また、随所に革新性が取り込まれているのだ。そして、こうしたブランドの志向を端的に表現する素材。それが「バチュー・クロス」ではないだろうか。

過酷な自然環境下にあっても、常に多彩な機能と優れた耐久性を発揮する唯一無比なる素材でありながら、エレガントで深く味わいあるその風合いから、私たちは無意識のうちに、ボブ・リーの自然に対する深い愛情と冒険へのたゆまぬ情熱を実感する。と同時に、そこにハンティング・ワールドというブランドの本懐を見るのである。

資料提供・協力:ワールドフォトプレス

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