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「バチュー・クロス」を巡る冒険
Collaboration with WEB MAGAZINE 『ぼくのおじさん/MON ONCLE』
「バチュー・クロス」を巡る冒険
Collaboration with WEB MAGAZINE
『ぼくのおじさん/MON ONCLE』
Vol.4 編集者/株式会社ライノ代表 蔡俊行
真説!1980年代のアメカジ、渋カジと
ハンティング・ワールドの原風景
文化的遺産としての、
ハンティング・ワールド。

___蔡さんは、この連載の前回、前々回でキーワードに挙がった『Made in U.S.A catalog』の直撃世代なんですか?
蔡 ぼくは1962年生まれなので、『Made in U.S.A catalog』が発売されたときは中学生。直撃とはいえません。ただ、ぼくはあれを読んだ先輩たちに多くのことを教えられているので、そういう意味では間接的に影響を受けているといえますね。
___やっぱりアメリカものが好きだったんですか?
蔡 あの頃は雑誌の力が強かったから掲載されているものはなんでも、という感じでしたが、アメカジは好きだったんでしょうね。渋谷のファイヤー通りにあった「ビームス」でアルバイトしていた10代後半から、ヴィンテージジーンズにハマっていました。
___1980年頃で!それは相当早いですね。

蔡 おそらく世界的に見ても早かったと思います。ちょっと記憶が曖昧ですが、原宿に今もある「バナナボート」という古着屋さんで、リーバイス501のXXが、新品でも5〜6万円くらいで買えましたよ。ただ、まだ〝ヴィンテージ〟ではなく〝オールド〟と呼んでいましたが。〝ヴィンテージ〟と呼ばれるようになったのは、ぼくが『POPEYE』をやるあたりかな?
___1980年代前半から半ばはDCブランドをはじめとする様々なファッションが流行った時代だと思いますが、その中におけるアメカジとは、メインストリームな文化だったんですか?
蔡 ぼくは「ビームス」のあと「TUBE」でも働いていて、当時「ユニオンスクエア」(セレクトショップ「レッドウッド」などの運営会社)にいた鈴木大器さん(ENGINEERED GARMENTSのデザイナー)あたりと仲良くしていましたが、みんなアメカジっていうカテゴリーは意識していませんでした。どちらかというと〝輸入もの〟という感覚でしたね。
___アメリカものばかり着ていても?

蔡 そう。ファッションは輸入ものがいちばん格好いいっていう刷り込みです(笑)。世の中ではDCが流行っているけど、われわれは国産は着ないって。昔の人たちは輸入ものが好きでしたからね。
___なるほど! 1980年代半ばまでは、アメカジという明確な線引きはされていなかったんですね。そういう蔡さんがはじめてハンティング・ワールドを意識されたのは、いつくらいだったんですか?
蔡 ぼくにはお洒落な姉が大勢おりまして(笑)、輸入ものの情報は比較的早く耳にしていたと思います。ハンティング・ワールドの存在も、中学か高校生くらいから知っていましたよ。当時の一流品を扱う雑誌には必ず出ていたし。
___手に入れたりはされたんですか?
蔡 ぼくは素朴なものが好きで、いわゆる高級ブランドは持たない主義なので、自分で買ったことはありません。ただ、1980年代後半から『POPEYE』編集部で働き出すんですが、一流品図鑑みたいな特集をつくるときには、必ず借りに行っていましたよ。原稿もしょっちゅう書いていたな。アーカイブをまったく取っておかないタイプなので、いつの号かは忘れてしまいましたが。

___なるほど、アメリカのブランドではあっても、やはりハンティング・ワールドは単純なアメカジアイテムというよりは、高級ブランドという位置付けだったんですね。
蔡 そう。これとルイ・ヴィトンの『キーポル』はすごく多かった。
___そのあたりは1980年代後半の渋カジたちのマストアイテムだったと言われていますね。
蔡 ただ、ぼくはいわゆる渋カジ世代ではありませんが、今になって語り継がれている彼らのスタイルって、ぼくから見ると少し書き換えられている感覚もあるんです。
___と、いうと?
蔡 渋カジのちょっと前の1986年頃、渋谷にはレイダースのサテンのジャンパーにハーフパンツをはいて、アディダスのハイソックスを合わせた大学生がいっぱいいたんですよ。で、そういう連中がいつしか、B-3のボマージャケットに、でっかいブランドのバッグを持ったスタイルに取って代わった。それがぼくにとっての渋カジのイメージなんです。
___現代のわれわれがイメージする渋カジとはちょっと違いますね(笑)。

蔡 彼らのようなスタイルでは、「バックドロップ」みたいな硬派なアメカジショップには入れなかったと思う。だから、当時を再現するようなイラストで、ハンティング・ワールドやルイ・ヴィトンのバッグに、チペワのエンジニアブーツやニューバランスを合わせちゃうようなスタイルを見ると、ちょっと違和感があるんですよ(笑)。
___なるほど?! 当時の渋カジとコアなアメカジとは、ちょっと毛色が違っていたんですね。確かに「バックドロップ」をはじめ、当時は怖いお店が多くて、テイストの違うお客さんは露骨に邪険にされていましたよね(笑)。
蔡 あくまで自分の見た風景をもとにした記憶ですよ(笑)。その頃はすでに銀座にある『POPEYE』編集部がベースだったので、四六時中渋谷原宿界隈にいるようなこともなくなっていましたし。
___でも、『POPEYE』では1989年に渋カジ特集をつくっていますよね?
蔡 あれは当時の編集長の号令でつくったのですが、実をいうと、そんなのもうみんなやってるじゃん、という感覚でした。その頃からすでに、雑誌よりもストリートのほうが早かったんです。1989年はその端境期だったと思いますね。
___それは意外です。その頃の蔡さんは、ニューバランスの『1300』の火付け役になるなど、読者を熱狂させる大ヒット企画をガンガン飛ばしていた印象がありますが。
蔡 あれは確かにまだ誰も履いていなかったです。広尾の多田スポーツで3万9000円で売っていたものを、清水の舞台から飛び降りる気持ちで買って、本当にいいと思ったから原稿にしたわけで、そこには全く嘘がないですよね。だからこそ、読者も面白がってくれたんだと思いますよ。

___おっしゃる通りだと思います。ちなみに1980年代のハンティング・ワールドといえば渋カジと同時に、〝サファリ〟という軸でも語られますよね?
蔡 サファリといえば、「ユニオンスクエア」が渋谷の東急ハンズの隣に出していた「アウトバックスタイル」というショップが、ウィリス&ガイガーやバナナリパブリックといったブランドを扱って、1980年代後半にはすごく流行っていました。あとは千駄ヶ谷にお店があった「オトゥール デュ モンド」というフランスブランドも、そのあたりのテイストを打ち出していましたね。ただ当時の日本って、やっぱりお洒落な人は少なかったんです。なのでこういった服とハンティング・ワールドのバッグを合わせているようは人は見たことがありませんでした。パリにはいたかもしれませんが。
___どちらも知りませんでしたが、それは興味深いですね。今ハンティング・ワールドのバッグを買っている人たちは、まさにそういったテイストのスタイルに合わせているんですよ! 松山猛さんのインタビューでは、フランスとの関連も語られているし。
蔡 それは全然知りませんでした。ファッションはグルグル螺旋を描きながら進化しているから、この業界にいると「あれ、なんで今これ着てるの? 昔流行ってたよね」ということの繰り返しなんですよ。今はほかに、どのあたりの人たちに刺さっているんですか?
___それこそ、人気スタイリストの長谷川昭雄さんがフイナムの連載『AH.H』で取り上げたり、セレクトショップ「L'ECHOPPE」の金子恵治さんも愛用されているらしいです。

蔡 確かにフイナムに出ていたな(笑)。業界の二大目利きじゃない。それが2022年ってことですよね。
___やはりなにか特別なブランドだと思います。
蔡 たしかに大ブランドですよね。〝ナラティブ〟が語られるという。だって高級品と無縁なぼくですら「バチュー」を知っているくらいなんだから(笑)。

A/サイのオブジェがそこかしこに飾られた「ライノ(サイ)」の社内。 B/蔡さんのデスクの中には、リコーのGR3とフィルム機のローライ35が。どこか共通するデザイン思想を感じさせる。 C/意外なことに、蔡さんのオフィスには80年代の資料はほとんど残っていない。 D/実は蔡さんはバイク乗り。なんと30年以上前にアメリカから個人輸入した、ハーレー・ダビッドソンのXR1000だ!
蔡 俊行(さい・としゆき)
1980年代後半から1990年代にかけてフリー編集者として活動。『POPEYE』や『Begin』のファッションページにおいて、ニューバランスのスニーカーやチャンピオンのリバースウィーブなど、数多のヒットアイテムを生み出す。その後制作クリエイター集団『ライノ』を設立、ファッション系WEBメディアの先駆者的存在『フイナム』の運営や、ホワイトマウンテニアリングに代表されるアパレル事業を手がける。
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